織田信長の息子信雄おもろすぎwwww

1:風吹けば名無し@\(^o^)/: 2016/01/12(火) 09:33:53.55ID:wzGTZn8qK.net
織田 信雄(おだ のぶかつ[注 1])は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。
初めは、伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。法名「常真」の「常」は、織田家伝統の「常」である。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/織田信雄
勝手に戦争して大敗し信長にブチ切れられるw
天正7年(1579年)9月16日、信意は信長に無断で自らは8,000、柘植保重に1,500人の兵を率いさせ、伊賀国に3方から入り伊賀惣国一揆を攻めたが、伊賀十二人衆と言われる自治集団に大敗し、殿軍の柘植保重は植田光次に討ち取られた。これを受けて信長に「親子の縁を切る」とまで書状で脅され、叱責された(第一次天正伊賀の乱)
信長の後継者会議に名前すら出ないw

同じく後継者になれなかった優秀な弟信孝をなぜか逆恨みして自殺に追い込むw

戦後の清洲会議で信意は兄・信忠亡き後の織田家の後継者になろうと画策するものの、秀吉は信忠遺児の三法師(織田秀信)を推し、もう1人の実力者である柴田勝家は弟・織田信孝を推し、信意は当主候補にはされなかった。結局、織田家当主は三法師、後見役は信孝となる。信長の遺領配分で、信意は尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続した。その際、織田姓に復して信勝、次いで信雄と称し、家臣の津川義冬を家老に取り立てている。義冬は信雄の一字を与えられて「雄光」と改名した。
その後、台頭してきた秀吉と信孝・柴田勝家らが争い、天正11年(1583年)4月に賤ヶ岳の戦いが発生した。 信雄は秀吉方に属し、5月には信孝を岐阜城に攻めて降伏させた。信孝は尾張に送られる途中で切腹させられた。
家康に協力してもらっといて勝手に和睦w
天正12年(1584年)3月6日、家康と相談した上で秀吉に内通した疑いにより重臣の津川雄光(義冬)・岡田重孝・浅井長時を殺害して秀吉に事実上の宣戦布告をする(小牧・長久手の戦い)。

3月11日に清州城で家康と作戦会議を開き陣城の構築を指示した。また長宗我部元親・佐々成政・雑賀衆とも結び連合して羽柴家と戦った。織田・徳川連合軍は秀吉と戦闘状態に入り、4月9日の長久手の戦いで羽柴方の池田恒興や森長可らを討ち取った。

しかし、伊勢では誅殺された重臣3人の一族が造反、更に秀吉の計略で九鬼嘉隆・秋山直国らも謀反に及び、また羽柴秀長・蒲生氏郷・堀秀政・筒井順慶・藤堂高虎ら羽柴勢の侵攻を受け、峯城・松ヶ島城・戸木城が落城した。

そして11月15日、 伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に、家康に無断で単独講和を結んだ。このため、信雄を擁していた家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤兵した。
なぜかいきなり秀吉に反抗して領地全部没収w

秀吉が天下人になったらノコノコ出てきて秀吉のお話相手とかいう仕事に就職w
周りがみんな死んでいくなか家光の頃まで長生きするww



3:風吹けば名無し@\(^o^)/: 2016/01/12(火) 09:35:31.58ID:t9JksOYHa.net
三介どののなさることよ
当時の織田家中では、信雄の失態について「三介殿(信雄)のなさる事よ」と呆れ気味に評されており、暗愚と見られていた。無断で始めた伊賀侵攻戦で大敗した際、信長は譴責状を送って叱責したばかりではなく、一時は親子の縁を絶とうとしたと伝えられる。


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